恵まれた不幸

お姫様みたいな理想は昔からなかったし、周りが欲しがるようなおもちゃにも興味がなかったように思う。

読書は好きだったかもしれない。

今じゃもう本の内容なんてほとんど覚えていないけれど、小児科病棟の本は全部読み切ってしまって、そもそも内容が「のんたん」だとか、そういうのだったから、読んだと言えるのかどうかも定かではない。

 

あと記憶に残っているのは、不自由な右手と左手に持ったスプーンくらい。

 

7歳の私は、右と左がわからなくて「聞き手はどっちかな?」と看護師に聞かれて「左」と答えた。

もちろん右利きである。

ちょうどその頃は、救急搬送されたばかりで親と引き離されていた。

戻ってきた母が、病室の扉を開けるなり

「何で、右手に点滴刺さってんの…」と呟いて呆然と立ち尽くしていたのを覚えている。

今ならばきっと、針を刺し直せば良いのだろうし、概ね一回で採血から点滴までが終わるようになっているが、昔は太さの違う針を3回も腕に刺された。4回目など勘弁してほしい。

 

その後3週間に渡る入院生活は、平穏ではなかった。

まず1週目は、利き手に刺さった点滴が邪魔で食事はほぼ介助してもらった。

2週目になり、兄が拗ねた。

母が病院に泊まり込んでいたためだ。

両親は兄にゲームを与えた。

3週目になり、手紙が届いた。

クラス全員からの手紙だ。

そこに書かれていたのは短い文章で、ほとんどが「はやくげんきになってね」「いっしょにあそぼうね」だった。

後に知ったが、クラス担任が半ば強引に書かせるお見舞いメッセージだ。

その束を持って見舞いに来て言う。

「ほら、みんな待ってるから早く良くなってね」

 

私は兄を羨ましく思っていた。

兄からすれば私が母を独り占めしているようなものだったのかもしれないが、飲みたくもない薬を飲み、吐き、高熱に耐え、呼吸もままならず、酸素吸入をし続け、死にそうになったことが何度もあった。

学校にも通えない、病弱な私は、病室のベッドの上で、ひたすら生まれてきたことを後悔していた。何度も、何度も、母に対して「生まれてこなければよかった」「もう死にたい」と当たり散らしたのを覚えている。

母は泣きながら「ごめんね」と繰り返すばかりで、私もそんなことを言ってもどうにもならないことはわかっていて、一緒に泣いていた。

 

一方、兄には健康な体があり、望んだもの(例えばゲーム)は惜しみなく与えられた。

彼は健康であるのに、学校には行かず、ただ引きこもってゲームをしていた。

 

当時の私からすれば、健康であるのに学校にも行かず、欲しいものは惜しみなく与えられ、好き勝手に生きている兄を許せなかった。

しかし私の思いとは裏腹に、兄は私のことを溺愛していた。

 

少し体調が落ち着くと、年に数回程度だが学校に行くことができた。

けれど、あれらのメッセージカードに書かれていたことは全部嘘だった。

担任は見て見ぬふりするような人間で、私はいじめの的になっていた。

 

ブランコから突き落とされたり、泥水をかけられたり、体育の授業に出られないのを見て「サボりだ」と言われたり。

アレルギーで給食が食べられず、お弁当を持参していたことは、周りの子ども達からすれば異質だったのだろう。

アトピー性の皮膚炎や、食物アレルギー、花粉、ハウスダスト。私にとっての脅威はこれだけに留まらず、周りの人間すら悪魔に見えた。

 

それらを学校に訴えれば、モンスターペアレントだと言われて、酷く惨めな思いをして過ごした。

 

小学校に通うことはもうなかった。

 

小学5年生になった頃、叔母が実家に舞い戻った。

私の家族は家を追われ、引っ越すことになったが、家庭内の環境も悪化するばかりで、生きていることに絶望していた。

 

中学生になれば、人間関係も変わるだろうと、通うことになったが、私の人間性以前の問題で、いじめられることがあった。

同校に通う、二つ上の従姉妹と、姉妹だと勘違いされて、入学した途端からとばっちりを受けたのだ。

 

彼女はめちゃくちゃ可愛かった。

見た目だけは。

性格がとんでもなく悪かった。

 

その頃、両親にわがままを言って、テニス部に入った。

体力はなかったが、負けず嫌いだし、運動は好きだったので真面目に行っていた。

 

同クラブに二歳差の本当の姉妹がいて、彼女の噂は瞬く間に広がってしまった。

従姉妹というだけで、それからはノートに「ブス」「死ね」などと書かれて、いじめられるようになった。

(ちなみに書いたそいつは、YouTuberとして成功し、有名人になった。)

従姉妹が卒業しても、状況は変わることなく、結局、いじめの的になってしまっていた。

しかし私は、ある意味図太かったので、部活に通い続けていた。

 

とある夏の日の放課後、私は部室に閉じ込められた。

 

そこはプール下にある倉庫で、コンクリートに囲まれた6畳ほどの、ひんやりとした空間だった。

重くて分厚い、鉄の扉を閉めてしまえば、ほとんど何も見えない真っ暗闇だ。

その錆びついた歪な扉の隙間から差し込む細い光だけが見えていて、少し目が慣れてくると、体育祭用のカラーコーンやフラフープ、カゴいっぱいのテニスボールなどが見える。

座れるような場所はないし、足元のコンクリートが見えるような場所は1畳ほどしかなくて、私は適当に腰を下ろした。

ただの嫌がらせだろう、そのうち出してもらえるだろうと思っていたが、甘かった。

どれくらい経ったか、差し込んでいた光がだんだんと薄くなっていって、終いには消えてしまった頃。

やっと解放された私は、翌日から学校に行くことを止め、ゲームに明け暮れた。

中学3年生になる頃、誰にも何を告げることもなく引っ越し、転校した。

 

転校先では、すでにいじめの標的がいて、私がいじめられることはなかったが、体調が酷く悪化していて、学校に行くことはできなかった。

中学3年生の1年間は1人で暮らしていた。

兄が私のことを性的対象として見ていたからだ。

洗濯や料理などの家事は全部自分でしなければならなかったし、ただ1人の時間を過ごした。

そして4年間の兄から受けた行為全てを、無意識に自身の記憶から抹消した。

 

正直もうずっと、生きているのは嫌だと思っているし、死にたいけれど、死ぬのが怖くて死ねないだけ。

誰に相談しても、味方はいないし、学校の相談員は「大人になって早く結婚して家を出ればいいよ」と言う。

 

程なくして、兄が自閉症だと知った時、全て私のせいかもしれないと思った。

 

私は愛されすぎた。

両親からも、兄からも。

 

それ故に、壊れてしまった。

母は私を離さないし、兄は私を性的対象として見た。

 

ヒステリックママは私が1人で出かけるのを嫌がるし、酷い時には泣き喚くほどで、一緒にゲームをしないとか、会話を嫌がったりすると同様のことが起きる。

母はきっと寂しいのだろうし、私が過去に言ってしまった「生まれてこなければよかった」という発言をひどく気にしているようだ。

この発言自体、母に対するものではなくて、自身に対する評価だと母は知らない。

何もできないことや、周りに迷惑をかけてしまっている自分自身への呪縛だ。

一貫してこの気持ちは和らぐことなく、今も尚、私は死を望んでいる。

 

医療費が嵩むにつれ、家計を大きく圧迫していった。

金銭的なことで両親が揉めているのをよく見ていて、当時両親の喧嘩は絶えなかったし、言い合いを聞いていると、どうしても自分のせいでこうなってしまったと悔やまずにはいられなかった。

 

いつから、どこから、狂っていたのだろうか。

もうわからなかったが、中学3年生の冬。

 

私は自殺を決意した。

 

しかし、私の自殺は未遂に終わってしまった。

何故かいつも何かに阻まれた。

 

橋の上から飛び降りようとしていたところを、巡回していた警察官に見つかった。

 

全く人気のない、ど田舎の橋の上。

それも深夜。

なぜ通りかかるのか。

 

翌日、深夜3時。橋の上まで来た。

今日は警察官もいないし、見通しが悪いこの場所を誰も見つけることはないと安心しきった瞬間

どこからともなく、鳴き声が聞こえてきた。

橋の上で、街灯は一つしかなくて、足元は薄暗い。

軽く周りを見渡しても、見つけることはできなくて、空耳だったのではと思い直した時、ふわふわした何かが、私の足に体を擦り付けてきた。

そいつは猫だった。

私がしゃがみ込むと、地面に横たわってナデナデしろと言わんばかりに体をうねらせている。

少し撫でてやると満足そうに鳴くのだ。

 

私は死ぬのを諦めた。

諦められるほどの浅はかな決意だったからだ。

 

私は、誰の役に立つでもなく、ただ生きていて、両親の口喧嘩にストレスを覚え、兄からの愛情を汚らわしく感じていて。

それと同時に、平凡な愛情を求めるようになった。

 

性的なものでもなく、依存的なものでもない。

ただ愛おしいと思えるものが欲しかったし、そう思われたいとも思った。

 

けれど、そんなものはなく、高校生になった頃から性的対象として見られることは増えた。

私は、喘息が感染るなどと言われていじめられていたが、その頃にはもうほとんどの人間がうつらないということをしっかりわかっていて、むしろ助けてくれる人間が多くいた。

 

周りの人間に助けられることが増えるにつれ、自分の無力さを身に感じていた。

そんな小さな積み重ねは私の自尊心を、地の底へと追いやり、私はいつからか自分自身を卑下し責め立てるようになった。

何もできない役立たずだとか、生きてる価値などないとか。

 

私は恵まれすぎた。

恵まれたからこそ、失った。

自尊心も。生きる理由も。

 

誰かから愛される価値などないと。

あの人もみんなみんな知っている。

私自身に価値などないのだと。

 

ねぇ本当にこのまま。

働くこともできなくて、ただ無気力に日々が過ぎて、歳をとって、両親に迷惑をかけてしまうだけなら、私の生きる意味は一体どこにあるんだろうか。

社会に貢献することもなく、自分の欲求を満たすこともなく、何の希望も夢もなく、生きる術もお金もない。

 

私の人生は一体何なんだろう。