窒息してしまいそう

失ったものは数えきれないし、得たものはない。

軟禁されていたこの2年間、幸福だったのか不幸だったのかすら私にはわからない。

けれど生かされていたのは確かで、心は宙に浮いているけれど、今も未だ地を踏んで生きている。

代償は大きかった。

田舎暮らしでは、1人1台は車を所持しているものだから。

車も仕事も家も。

何もかも無くした私には絶望しかなかった。

 

どこで間違ったのか。

間違ってなかったのか。

何もわからないけれど、あの時叩きつけられた主張書面は嘘ばかりで、憤る事もできなかった。

ただ世界が一瞬、呼吸をやめてしまったかのような、そんな静寂に支配された。

冷静であったわけでは決してないだろう。

次の瞬間には、涙と笑いが込み上げて来て私は壊れてしまったから。

何故今まで一緒に過ごせていたのだろうかとか、何故我慢し続けていたのだろうかとか、誰に問うたらいいのかもわからない物事が爆散して、答えなどわかるわけもなく、それは笑いに変わった。

涙は止まることを知らず、笑いは自分の愚かさを呪っているようで、生きる方法を探すより、真っ先に楽な死に方を調べた。

何度も死のうと思った人生だが、同時に生かされた人生でもある。

車がなければ働けない、おおよそ働ける精神状態でもない、家もない。私に行き場などない。

働くことは嫌いじゃないのに、いつからか人が怖くなって、1番得意だった接客業が大嫌いになった。電話に出ることすら怖い。人の声など聞きたくない。外に出られる唯一の機会も、楽しみだった買い物すら恐怖に変わった。

本当は知っている。さほど他人に興味などないし、すれ違う人が私を見ているわけではないことは。けれど人の視線が自分に向いていないとしても怖くてたまらない。息ができなくなる。

 

生きていることすら烏滸がましく、いつからか自分の存在自体を否定し始めた。

好きだとか愛しているとかいう周りの声が理解できなくて『こんな自分…』と卑下する度に苦しくなって人を遠ざける。

優しくなりたいと思うし、苛立ちを抑えきれずに暴言を吐いてしまった時は、その瞬間から後悔していて苦しみに苛まれる。

泣いても吐いた言葉は取り消せなくて、自分の弱さも相手を傷つけてしまう自分自身も嫌いで仕方がない。

次第には話すことが億劫になってしまった。

そんな反面、臆病で弱すぎるせいか、自分と向き合うことなんてせずに誰かに縋って生きていたいと思う時がある。

けれども傷つけられたり傷つけてしまうなら、最初から一人がいいと考え直したり、兎に角思考が定まらない。

根本にある指針は、孤独であることをベースに“穏やかでストレスの限りなく少ない生活”をおくること。

しかし、メンタルが崩れてしまうとやはり寂しいと思うし、悲しくなって自分で立つことはできなくて、世界が私を引きずって生かし続ける。

 

生きることも死ぬことも容易ではないだろう。

どちらを選んでも他人の迷惑になる。

それならせめて、生きる選択をしようか。

そんな私の人生。

 

 

 

とりあえず、酸素をください。